遠藤保仁、「変えていく勇気~日本代表であり続けられる理由~」
遠藤保仁。通称ヤット。サッカー日本代表の歴代最多出場記録を更新し続けるこの男を、もはや知らない日本人はいないのではないでしょうか。
今や、レジェンドと言ってもいいほどのヤットですが、しかしこの立場になるまでにはずいぶん紆余曲折も経験しています。
今回ご紹介する最新書籍「変えていく勇気 日本代表であり続けられる理由」では、そんなヤットのプロデビューから現在までに仕えてきた日本代表監督とのエピソードを中心に、これまでの選手生活を振り返っています。
日本代表に定着するまでの道のり
ヤットの生い立ちは、鹿児島でも有名な遠藤三兄弟の三男としてでした。
後にプロとなる兄達を相手に毎日庭で繰り返されるボール遊びでは、普段から体格のハンディを弱点として利用されないように、頭を使ったプレーで対抗していたそうです。この発想、実は現在の世代別代表に選出されるために重要視されるポイントなのですが、幼少期から兄達と楽しく遊ぶために自然と身につけていたもので、その後現在までヤットのプレースタイルの基礎となっています。
高校入学後は、今日まで続く日本代表への道の第一歩として世代別代表に名を連ねるようになりました。
ただ現在の活躍を知っていれば当然レギュラーだと考えてしまうかと思いますが、この世代別代表こそ「日本サッカーの黄金世代」と言われる世代で、ヤットはまだその他大勢の中の一人という立ち位置。
当時からサッカー関係者からは玄人受けする選手でしたが、次第にトルシエのリストから外れることとなり、ついにフル代表として招集される機会はありませんでした。
ドイツワールドカップでピッチに立てなかったこと
ヤットがようやく召集されるようになったのは、ジーコが日本代表を率いるようになった2002年以降になります。
ジーコ・ジャパンの最大の売りは「黄金の中盤」と命名された、ヨーロッパでプレーする海外組4人の独創性にありました。
しかしプレーに自由と言う選択肢が与えられた選手達は混乱の真っ只中にあり、徐々にチームとしてのまとまりが無くなり始めていた時期です。
ジーコが求めていたのは、ヤット最大の特徴である「プレービジョン(俯瞰的視野)の広さ」だったのです。
ただ、ジーコ・ジャパンでの役回りはあくまで「黒子」に徹することだったと思います。
あくまで主役は中田英寿であり、中村俊輔という共通認識があり、彼らが気持ちよくプレーできるようにサポートするのがヤットの使命。
この配慮が功を奏し、3大会連続のワールドカップ出場と言う最低限の成果を挙げていることからも、正しい判断だったのではと思われます。
「史上最強の代表」とマスコミに作られたイメージ、さらにワールドカップ前の強化試合の出来が良かったからか、どこかに気の緩みがあったのか、初戦のオーストラリア戦をこれ以上ないのではないのかという悪い形での逆転負けを喫し、黄金世代の最強チームは崩壊してしまいました。
フィールドプレーヤーで唯一ピッチに立てなかったヤットですが、大会の雰囲気を体に噛締め主力選手としてプレーすることを新たな目標として、ドイツの地を離れるのでした。
南アフリカワールドカップでの成功体験
オシム・ジャパンでは「日本オリジナル」のサッカーを作り上げるべく、これまで召集されたことのない選手が大量に起用されることから始まりました。
これまで見たこともない頭を使ってサッカーをすることを学ぶ選手たち。
その持論にすっかり魅了されるヤットでしたが、ようやくその形が垣間見えてきたところで、オシム氏が病で倒れてしまいます。
この窮地に代表を率いることとなった岡田監督は、当初こそオシム路線を貫こうとしますが、明確な結果が得られなかったこともあり現実に即した最適な手法を選択せざるを得なくなりました。
本大会直前で、ポゼッションサッカーからリアクションサッカーに変更したのがその最たる例です。
システムの変更・起用メンバーの変更と大鉈が振るわれましたが、期待以上のベスト16と言う結果は上出来と言っていいでしょう。
この岡田ジャパンでダブルボランチを長谷部と組むことになったヤット。
以降、この心臓部を中心に新しい血が入ることで、代表は進化の道に挑むことになります。
落胆のブラジルワールドカップ
南アフリカで表現できなかった「日本オリジナル」のサッカーを完成させるべく、ザッケローニ・ジャパンが発足。
安定していた4-2-3-1システムから、より攻撃的に3-4-3システムを身につけるための4年間がスタートしました。
結果的に2011年アジアカップをピークに、チームとしての成長はありませんでした。
ブンデスリーガをはじめとして、海外組が過半数を占める代表チームは、メンバーを固定して各コンペティションに挑む必要性に迫られ、新たな選手・可能性を試す余地が残されていなかったのです。
ヤットをはじめとする主力選手数人が危機感を募らせる中、コンフェデレーションズカップでの惨敗でようやく固定メンバーで戦ってきた功罪に気がついたものの時すでに遅し。
わずかな準備期間しか残されておらず、建て直しの効かないままブラジル本大会を迎え、多くのサッカーファンを落胆させることとなったのです。
今後の遠藤保仁の存在
当初は召集されることのなかったアギーレ・ジャパンにも主力として名を連ねたヤット。アジアカップは残念でしたが、代表通産150試合出場を達成しました。
監督が変わるとヤットが招集されるかどうかわかりませんが、個人的にはまだ代表でという思いがあります!「対アジア仕様」と「対世界仕様」二つのコンペティションで戦えるサッカー観をこれから起用される若手選手たちに伝えていく役割が期待されます。